管理人より

       
                                       元寇の話      


                  今年のNHK大河ドラマは「鎌倉殿の13人」で、鎌倉幕府の第2代執権となった北条義時(1163-1224)が主人公です。

                 久しぶりに鎌倉時代の歴史が繰り広げられるので、この1年が楽しみです。

                 ところで、元寇が日本を襲ったのは、1274年(文永の役)と1281年(弘安の役)で、第8代執権の北条時宗

                 (1251-1284)の時代でした。この元寇は「蒙古襲来」とも呼ばれますが、実際は元軍の他、当時元の属国だった高麗の

                 軍も参加した元・高麗連合軍でした。私は日本征服をめざす元と、それに協力するよう要求される高麗の苦悩を描いた

                 井上靖の小説「風濤(ふうとう)」を読んだことがあります。もう35,6年ぐらい前です。あまり面白い小説ではあり

                 ませんでしたが、歴史の勉強には役立ちました。

                   さて、昨年は弘安の役後740周年となった年でした。対馬市の小茂田浜神社は毎年例大祭を実施し、元寇軍を迎え

                 撃つ武者行列を実施しています。昨年は新型コロナウイルス感染防止のため、武者行列や奉納相撲など一連の行事は

                 中止されました。私はまだ20代の頃、対馬に3年間勤務したことがあり、1985年(昭和60年)11月に開催された

                 小茂田浜神社の例大祭を西日本新聞の記者と対馬の郷土史家の3人で、見学に行ったことがあります。その時に撮影し

                 た写真を以下に掲載します。懐かしいです。




                            



                                      



                       



                       





                                



                                
           


                  1274年の文永の役では、高麗軍を含む約4万人の元軍が、朝鮮半島の馬山を出航し、このうち約1千人が対馬の

                 小茂田浜に上陸しました。この時、対馬の守護代の宗助国は約80騎余りの兵を率いて戦いましたが、全員戦死しました。

                 小茂田浜神社は、この宗助国などの戦死者を祀っています。

                        



                令和3年12月

                            対馬の盗難仏像訴訟について      


                  対馬市豊玉町の観音寺から韓国人窃盗団によって盗まれ、韓国内に持ち込まれた長崎県指定有形文化財の観世音菩

                薩坐像については、現在韓国忠清南道瑞山市の浮石寺が所有権を主張して韓国政府と大田高等裁判所で係争中ですが、

                観音寺の前住職が裁判に利害関係者として補助参加する意向を韓国側に送り、11月22日に同高裁に届いたことが日本

                の新聞・テレビで報道されました。

                  この仏像盗難事件は、平成24年(2012)10月に起きたので、もう9年も日本に返還されていません。いったい、日本政府

                 は何をしているのでしょうか。外務省は無策ではないのかと言いたくなります。

                産経新聞のWebニュースによると、11月24日、松野官房長官は記者会見で、「いまだ返還が実現していない仏像が早期

                に返還されるよう韓国政府に対して強く求めてきており、引き続き韓国側に適切な対応を求めていく」と述べたそうです。

                裁判中であり、なかなか日本政府として実効性のある返還対策を講じることができないようですが、そもそも裁判になること

                自体がおかしいと思います。韓国政府は一刻も早く返還してほしいと思います。

                  韓国の聯合ニュースは、11月23日に東京発の記事を報道しましたが、次のとおり書かれています。


                     왜구의 약탈로 일본으로 넘어갔다가 절도범 손에 한국으로 돌아온 고려시대 불상의 소유권을


                   「倭寇の略奪で日本に渡り、窃盗団の手で韓国へ帰って来た高麗時代の仏像の所有権を」という意味です。

                  この聯合ニュースの記者は、「倭寇の略奪で」と何の根拠で書いているのでしょうね。思い込みも甚だしいと思います。

                 当時は貿易によって、朝鮮から仏像や大般若経が日本へ持ち込まれたというのが、日本側研究者の見解です。

                 日本側に渡った仏像などが盗品であるとしても、それはお寺の事情に詳しい朝鮮人がお寺から盗み出して朝鮮人商人に

                 売り、それをその商人が日本人に高く売りつけたということもあり得ない話ではないと思います。結局のところ、証拠もない

                 のに一方的に、自分たちの勝手な都合で、すぐに被害者意識を振りかざして、日本側に非があるように言うのは、韓国の

                 現代人の悪い癖だと思います。韓国人の中には、浮石寺側の主張は間違っているとして、日本側に返還するよう運動して

                 いる人たちも少数ながらいるようです。まともな考えを持つ韓国人も中にはいます。でも韓国人は日本人と比べると、まだ

                 後進国の人間だという感じがします。

  
                   また、韓国人が倭寇を言うのであれば、当初は日本人が倭寇として朝鮮半島や中国の沿岸を荒らし回ったのは確かで

                 すが、後に倭寇と言われる人々の主力は、日本人の格好をした朝鮮人や中国人だったようです。現在の韓国人は、この

                 事実を知らない人が圧倒的に多いようです。朝鮮王朝実録にもたしかそのような記述がありました。

                   上記の聯合ニュースの記者も、何でも日本を悪者扱いする韓国政府の教育によって、一方的に、「倭寇の略奪で日本に

                 渡った」とする記事を書いたものだと思います。教育とは恐ろしいものだと、つくづく思います。




                令和3年11月

                              明治時代における長崎県女性の海外売春      


                  明治・大正時代に、貧しさから身を売って海外に出稼ぎに行って、現地の娼館で売春を行った人たちがいました。

                 いつからかわかりませんが、中国の上海やロシアのウラジオストック、朝鮮の仁川やシンガポールなど東アジアや東南アジ

                 アへ渡航して売春した人たちを総称して、「唐行き」さん、つまり、「からゆきさん」と呼ばれるようになりました。

                 この「からゆきさん」は、国内では長崎県の島原半島と熊本県の天草地方の出身者が多かったようです。南島原市の口之

                 津歴史民俗資料館には、「からゆきさん」についての資料展示コーナーが設置されています。

                  売春しに海外へ渡航するため、密航する人たちが跡を絶たなかったようです。当時の新聞にも彼女たちについての記事が

                 掲載されていて、私が収集した鎮西日報にもいくつかありますので、紹介いたします。

                 朝鮮の仁川で売春していた女性たちの記事『淫売婦退韓を命ぜらる』については、この欄の今年9月に掲載していますの

                 で、このホームページの『●「管理人より」アーカイブ2』を見ていただけたらと思います。

                   以下に、3つの記事を年月日順に掲載いたします。

 
                  【鎮西日報 明治26年4月13日記事】

                   ●密航婦女

                      近ごろ甚だ多きより、その筋にては極めて視察を厳にするも、隠顕出没ほとんど捕捉すべからざるの有様にて、

                     この程もドイツ汽船某号の出港を港外10余里の海中に待ち受け、20余名の醜業婦を上海に送りたる者あり。


                  【鎮西日報 明治26年5月10日記事】

                   ●長崎県に警察なし

                      これ、その密航媒介の奴を処分する能わざるにつき、日本新聞の下したる評語なり。

                     吾輩は国権のために痛憤これ久し。


                  【鎮西日報 明治29年4月15日記事】

                   ●密航未遂

                     出るワ去るワ、浦潮(ウラジオ)の氷が解けたから貝類・・・・・・ではない。密航の売婦連が浮き上がりて来たのサ。

                    所は西彼杵郡大串村656番戸の森〇〇(30年)と言うは、上長崎村1069番戸の西岡〇〇(48年)と言う欲婦と

                    共謀し、浦潮へ密航させんとて、十善寺館内飲食店の酌婦本田〇〇、梅垣〇〇の両名をつれ出し、再昨夜

                    大波止に出で行きたる所を兼ねて嗅ぎ付け居たる梅香崎(警察署の)巡査にドッコイそううまくは行かぬぞ・・・・・

                    例によりて梅香崎署へ。



                   上記の〇〇は、私が下の名前を伏せたものです。

                  それにしても、当時、長崎県警察は密航の取締りに手を焼いていたようで、日本国内の新聞から、「長崎県に警察なし」
   
                  と叩かれていますね。売春のため密航を媒介して金を得ようとする者、売春してお金を稼ごうとする者が跡を絶たないほど

                  多かったのでしょう。しかし、中には売春するとは知らずに媒介者に騙されて、海外へ出かけた人もいた人もいたようです。

                   山崎朋子著『サンダカン八番娼館』という本に詳しく掲載されていますので、まだ読まれていない方は、ぜひ読んでいただ

                  きたいと思います。




               令和3年10月

                              朝鮮カトリック教会の臨時拠点が長崎に       


                 今年6月5日、長崎市平和町にある「浦上キリシタン資料館」において、NPO法人アジェンダNOVAながさきが主催する講演

                会が開催されました。講師は長崎外国語大学非常勤講師の宮崎善信氏で、『長崎居留地にあった朝鮮カトリック教会の臨時

                拠点』というタイトルで、約1時間30分講演されました。

                宮崎善信氏は近代日韓カトリック教会関係史の専門家で、キリスト教史学会や朝鮮史研究会等に所属しておられます。

                以下に、当時の長崎居留地が朝鮮カトリック教会の臨時拠点となった経緯について、講演資料を抜粋して掲載させていた

                だきます。


                 〇パリ外国宣教会

                   長崎で布教活動を行ったプティジャン司教やド・ロ神父は、パリ外国宣教会所属の宣教師でした。同じように朝鮮において

                  もパリ外国宣教会が長期にわたって宣教を行っていました。

                   1831年にパリ外国宣教会朝鮮教区が設立され、ブルギエール司教が初代教区長に任命されました。しかし、1835年にブ

                  ルギエール司教は朝鮮に入国できないまま亡くなりました。2代目教区長はアンベール司教で、1839年に他の2人のフランス

                  人神父と共に捕えられて殉教しました。3代目はフェレオール司教、4代目はベルネー司教、5代目はダブリュー司教、6代目

                  はリデル司教と続きます。

                   1876年に、リデル司教、ブラン神父、ドゥゲット神父の3人が朝鮮潜入に成功します。ブラン神父は後に長崎の大浦天主堂

                  で司教に叙階されます。また、ドゥゲット神父も一時長崎に滞在しています。 

 
                 〇1866年朝鮮でカトリック教会に対する大規模弾圧

                    朝鮮では、幼年の国王高宗に代わって実権を握っていた父親の大院君がキリスト教徒に対して弾圧を行い、数千名が

                  死亡したとされています(「丙寅迫害」)。当時朝鮮で活動していた宣教師12名のうち9名が殉教し、当時神父だったリデル

                  司教は他の2名とともに、朝鮮国外へ逃れました。その後、朝鮮に入国できないまま、中国の遼東半島の教会を拠点にして

                  宣教活動を続けました。10年後の1876年に、朝鮮教区長のリデル司教は、ブラン神父、ドゥゲット神父とともに朝鮮潜入に

                  成功し、朝鮮で再び活動を始めました。 


                 〇リデル司教の長崎滞在

                   1879年5月、リデル司教が日本を訪問しました。滞在中に朝鮮でドゥゲット神父が逮捕収監される事件が起こり、この

                  ことを在釜山日本領事館の山之内管理官が東京に戻った際にリデル司教に伝えています。実は、釜山近隣に住む朝鮮人が

                  長崎のプティジャン司教にドゥゲット神父が逮捕収監されこたを伝えています。また山之内管理官はブラン神父から書簡

                  で伝えられています。リデル司教が日本滞在中寺島外務卿に、長崎と釜山間に確実な書簡・物資のやり取りができるよう

                  依頼し、日本側は釜山の日本公館で便宜を図ってくれました。ここに、長崎・釜山間に確実な連絡網が確立し、1879年12

                  月、リデル司教はパリ本部に、「日本を通じた朝鮮内部との連絡網が新設された」と書簡で報告しました。

                   1881年8月、リデル司教は、パリ本部へ宛てて書簡を送り、「あらゆる書信連絡は釜山を通じて行われているので、長崎に

                  拠点を設置して、コスト神父に委ねることに決定」したと報告しました。

                   1881年10月、長崎常駐についてプティジャン司教と相談するため、リデル司教が長崎にやって来ました。ところが、長崎

                  滞在中に脳卒中で倒れ、右半身麻痺となってしまいました。その後香港へ行って、病気療養しています。


                〇コスト神父らの長崎滞在

                  1882年2月13日付け書簡でコスト神父は、パリ外国宣教会の香港事務所長宛てに、朝鮮教会の会計事務所を長崎に置く、

                 長崎が釜山との連絡通信の拠点になる、と連絡しました。

                  コスト神父は長崎の司教館(大浦天主堂に隣接)にプティジャン司教らと共に居住しました。プティジャン司教は1881年11

                 月21日付けの書簡をルーセイユ総長宛てに送り、「長崎の司教館にコスト神父、ポワネル神父、4人の朝鮮人学生が滞在

                 している」と報告しています。その後、長崎市浪の平山手26番地に転居しましたが、『外国人居留地名簿』に、コスト神父、

                 ドゥゲット神父、ポワネル神父、ジョス神父の名前が掲載されています。

                  コスト神父は長崎で朝鮮教区会計責任者として活動していましたが、その後、長崎に会計事務所と印刷所を置く必要性

                 がなくなったため、コスト神父はブラン司教の指示で長崎を離れ、1885年11月8日朝鮮に入国しました。

                  ブラン司教は1883年6月に朝鮮から長崎にやって来て、翌7月に大浦天主堂で司教に叙階されています。その後、ジョス

                 神父と一緒に上海を経由して朝鮮に戻りました。



                長崎外国語大学非常勤の宮崎善信氏は、上記講演の最後に、「実際に、朝鮮派遣宣教師が長崎に滞在した期間は短か

               ったとはいえ、長崎が韓国カトリック教会史の主要舞台となった」と述べていま  す。




               令和3年9月

                               長崎女性の負の歴史       


                   私は昨年の秋に、山崎朋子著『サンダカン八番娼館』という本を読みました。その後すぐに、インターネットで栗原小巻さん

                 が主演の同名の映画を見ました。どういう理由でこの本を読んだのかは覚えていませんが、とても衝撃的な内容でした。

                 「からゆきさん」という言葉がありますが、この言葉の意味について、山崎朋子著『サンダカン八番娼館』には次のとおり

                 記載されています。


                  [  周知のとおり、<からゆきさん>とは、「唐人行(からひとゆき)」または「(から)国行(くにゆき)」という言葉のつづまったもので、

                   幕末から明治期を経て第一次世界大戦の終わる大正中期までのあいだ、祖国をあとに、北はシベリアや中国

                   大陸から南は東南アジア諸国を始め、インド・アフリカ方面にまで出かけて行って、外国人に肉体を(ひさ)いだ
  
                   海外売春婦を意味している。その出身地は、日本全国に及んだが、特に九州の天草島や島原半島が多かったと

                   言われている。  ]



                   からゆきさんたちは、家が貧しいためにブローカーに売られて行った人や、売春するとは知らずブローカーに騙されて

                  連れて行かれた人たちもいました。
  
                   次の明治中期の新聞記事は、韓国の仁川で売春をしていた日本人女性たちが、日本領事館から国体を汚すとして、韓国

                  から強制退去を命じられたものです。8名のうち6人が売春婦で、2人が周旋人です。また8人のうち1人が大分県人である

                  以外は、全て長崎県人です。当時は、長崎から中国の上海や、韓国(朝鮮)の仁川へ直行便があったことから、上海や仁

                  川居住の日本人では長崎県出身者の比率がとても高かったようです。


                   【明治25年6月23日付鎮西日報】
  
                    ●淫売婦退韓を命ぜらる

                      近着の朝鮮仁川通信に依れば、毎々渡韓の本邦婦女子は一定の職業なく多くは居留地に於て、淫売を働くこと

                     なるが、此頃に至りては其醜行最も甚だしく、白昼外人に淫を鬻ぎて憚らざるに至り、国体を汚辱する実に尠少

                     ならざるを以て、領事代理能勢辰五郎氏は頃日、淫売婦及び其周旋人八名に対し向う三か年間其在留を禁止し、
                       
                     十五日以内に退韓すべき旨命令を下したりという。其退韓者は左の如し。 

      
                       長崎県長崎市今〇(ママ)町四十番戸平民 当時仁川港各国居留地二十七号地 居留料理業 松〇〇〇郎 

                     ◎同県同市同町同番戸松〇方寄留 住〇ワ〇
  
                     ◎同県同市樺島町五十四番地同上 〇野〇メ
  
                     ◎熊本県天草郡荒川内百十八番地同上 〇山〇〇
  
                      ◎長崎県壱岐国香椎郡千二百五十四番戸 当時仁川各国居留地十七号地 寄留料理業 〇尾〇吉 
  
                     ◎同県西彼杵郡上長崎村四百十一番地松〇方寄留 松〇ミ〇 
  
                     ◎同県同郡同村同番戸同上 川〇フ〇 
  
                     ◎大分県北海部郡三百八十五番戸同上 〇津〇メ 

                      ( ※ 〇は実名がわからないように筆者が付けたものです。)




              令和3年8月

                                 金井俊行の釜山居留民総代       

   
                 金井俊行(1850.3.1~1897.8.27)は明治22年5月の初代長崎市長選挙に立候補して、会津出身の北原雅長に敗れた人物

               です。長崎の西山郷に生まれ、慶応元年、16歳の時に長崎代官役所の書役という役職に就きました。 
    
               明治11年に長崎県少書記官に昇進し、明治16年に佐賀県大書記官となった後、明治19年8月12日に第4代長崎区長

               となりました。会津出身の日下義雄長崎県知事と一緒に長崎に水道を設置するために尽力しました。

               明治22年4月に市制が施行され、長崎区は長崎市となりました。翌5月に水道設置反対派が推す北原雅長対馬島司と

               市長選挙を争ったのですが、負けてしまいました。    

               明治23年1月に第2代の長崎市会議長となりましたが、議長在任1ヶ月に満たずして長崎県南高来郡の郡長に就任しまし

               た。明治27年南高来郡長を非職となった後、韓国の釜山へ行き、日本人居留民総代となりました。

                明治29年1月末病気のため帰国し、長崎市で療養生活を送りましたが、明治30年8月27日亡くなりました。
    
               享年47歳でした。

                明治27年2月17日付の鎮西日報に次のとおり金井俊行に関する記事が掲載されています。 


                【明治27年2月17日付鎮西日報】

                  ●金井俊行氏

                    非職南高来郡長金井俊行氏先般非職の沙汰あるや、世には氏が長崎県第一区衆議院議員候補者として打て出づ

                   るの心ありとか、或は種々憶測の風説もありしが、今確かなる筋より聞得たる所によれば、氏は今度釜山日本

                   居留地人民の懇請によりて、同居留地総代役所の長に挙げらるる由。平素敏腕を以て称せらるる同氏にして、

                   果して同居留民総代たらば治蹟見るべきもの亦多かるべし。
    

                その後、明治27年2月21日付の鎮西日報には、金井俊行の送別会が行われ、200名が参加したことが掲載されて
 
               います。そして、明治29年1月26日付の鎮西日報には、金井俊行が釜山居留民総代を辞職したことが掲載され、2日後の

                1月28日付の鎮西日報には金井俊行が長崎に帰って来たことが掲載されています。釜山には1年11ヵ月程度いたわけで

               すが、病気しなかったら、もっと長く釜山に滞在していたことでしょう。

                金井俊行が釜山へ渡った時期は、朝鮮では東学党の乱(1894.2.15~1894.12 甲午農民戦争)と呼ばれる農民たちの暴動

               が起こり、この暴動に基因して明治27年7月25日(豊島沖海戦)から翌年11月30日(台湾平定)まで日清戦争が起こ

               っています。世情が不穏な中で、朝鮮・釜山での日本人居留民たちの生活や経済活動を守るために、総代としていろいろ

               困難なことがあったかと思われます。病気になったのも、そのことが原因の一つであったのかもしれません。

                金井俊行は歴史家でもあり、「長崎年表」、「長崎略史」、「原城耶蘇乱記」などといった著作を残しており、47歳という

               若さで亡くなったのは実に残念に思われます。


                                      
                                              金井俊行
                                       


    
              令和3年7月

                              朝鮮殉教者の遺骨保管記念碑について
                               (조선순교자 유골보관 기년비에 대해서

   
                 特定非営利活動法人「アジェンダNOVAながさき」は、去る6月5日(土)に、「市民セミナリヨ 2021」の3回目の

                講演会を浦上キリシタン資料館で開催しました。講師は長崎外国語大学非常勤講師の宮崎善信氏で、「長崎居留地にあった

                朝鮮カトリック教会の臨時拠点」と題して約1時間半、講演されました。たいへん興味深い内容でした。

                 その時いただいた資料に、カトリック長崎大司教区が2016年(平成28年)11月1日に発行した「カトリック教報」

                という新聞のコピーがありました。私が知らなかったことなので、とても興味深く思われました。

                明治時代に朝鮮で殉教した4人の遺骨が長崎の大浦天主堂内に10年あまり保管されていた事実は私も知ってはいまし

                たが、その記念碑を韓国の大田教区の人たちが大浦天主堂の敷地内に建立したという内容です。

                 記事によると、2016年(平成28年)9月29日に石碑の除幕式が行われ、大田(テジョン)教区から約90人の巡礼団

                が参加し、長崎教区関係者も約40人が参加したそうです。石碑の石は殉教者が埋葬されたソジッコル(서짓골)という所から

                採石されたものだそうです。

                4人の殉教者のうち3人はフランス人宣教師で、もう1人は朝鮮人信徒指導者です。
 
                 私は、上記講演会の数日後、大浦天主堂を訪問し、その記念碑を見学しました。記念碑には日本語と韓国語で書かれ

                ていました。建立の趣旨などが次のとおり書かれてありました。


                    「   朝鮮教区 1866年 4殉教者 遺骨保管記念碑

                               韓國カルメモツにて殉教後
                               ソジッコルに埋葬された
                               4人の殉教者の遺骨を
                               (現)長崎大司教区が
                              1882年から
                              1894年まで
                               ここ大浦天主堂に
                               大切に保管してくれたことに
                               感謝し、記念碑を建てる

                         2016年9月29日 
                               韓國大田教区長 ラザロ 兪 興植司教  」
               


                  除幕式では、長崎市長から、今回の記念碑建立をきっかけに長崎の歴史にまた一つの新たな光があてられ、

                 世界に広く発信されていくことを期待する、とのメッセージが寄せられたと、「カトリック教報」に掲載されています。



                                    
                                           国宝・大浦天主堂




                                    
                                          4殉教者 遺骨保管記念碑



    
              

              令和3年6月

                             朝鮮王妃殺害事件について
                             (조선왕비살해사건에 대해서

   
                   朝鮮王朝第26代王高宗の妃である閔妃は、1895年(明治28年)10月8日の早朝、王宮内で殺害されました。

                 当時、長崎市で発行されていた鎮西日報がこの事件のことを報道しており、以下に紹介したいと思います。

                 事件が発生した10月8日の午後4時15分に日本の京城公使館は釜山領事館宛に次のとおり第1報を送っています。

                  「今8日午前3時頃、訓練隊第2大隊は兵営を脱し、麻浦孔徳里に至り、大院君を奉じて王城に迫れり。

                   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

                   訓練隊侵入の原因は一昨日来宮中にて、旧訓練隊の銃器を取り上げ、之を解散し、隊長を厳罰に

                   処せんとの詮議を漏れ聞き、一時に激昂し、遂に大院君を奉じて王宮に迫りしものと察せられる。

                   三浦公使は国王の召しに応じ、午前6時頃参内せり。」(鎮西日報明治28年10月12日付)

 

                  ここで、「訓練隊」について、10月15日付の鎮西日報に次のとおり記載されています。
  
                   「去8日事変の手動者たる訓練隊の性質は、昨年12月組織をせられたる洋式の兵隊にて、420人より

                   成れる大隊2個を以て組織せられ、何れも元込めのモーゼル銃を携え、日本の士官に訓練せられ、

                   今尚日本の守備隊長馬屋原少佐教導の任に当り、村井大尉の如きは日々出張して訓練に従事し  
      
                   居れる次第なるが」


                 このように、訓練隊は日本軍と深い関わりがあったことが記載されています。

                 次に、閔妃の死亡のことについて、鎮西日報は事件から1週間後の10月15日付で次のとおり報じています。

                  「●王妃死体発見の風説

                     朝鮮京城の変乱後宮中に於て女官3人の死体を発見したり。その中の1名は王妃なりと云うの風説あり。」
     

                  さらに、10月25日付の鎮西日報は王妃の死について、次のとおり報道しています。

                  なお、文中にある殂落(そらく)とは、崩御することだそうです。

                  「●王妃殂落の証言

                     今度韓廷事変に於て、宮内の貴婦人3名その難に遭い、その中に王妃ありとのことは確かな事実なるが

                    如くなれど、元来朝鮮は国病のこととて王妃は大臣にも謁を許し賜はざれば、誰とて王妃を知れるものなく、

                    唯下手人が1貴婦人の左眉上に疵あり、且つ、鼻の右側に黒痣あるものを殺せりと語れるに、大院君は、

                    さればそれこそ王妃に在すべけれと告げられしより始めて、王妃の殂落を確かめたるものなりとか。」
    
    
                  閔妃殺害事件は日本人と朝鮮人が共同して行ったようですが、現代の韓国では日本(人)ばかりを責めているのでは

                 ないでしょうか。日韓併合にしてもそうではないでしょうか。自国の国民より日本を一方的に悪く言っているのではないか

                 という気がしております。事件当時、鎮西日報は、事件にかかわった朝鮮人の中には、日本の服を着けていた者が多数

                 いたとする伝聞記事を掲載しています。


                  【明治28年10月16日付鎮西日報】

                     「●朝鮮人日本服を着けて王宮に入る

                      去8日韓廷事変の際、大院君の王宮に入りたる時、その伴いたる朝鮮人中に日本服を着けたる者多数

                      ありし為め、滞在本邦人の迷惑少なからず。又、この混雑に紛れ王宮に入り込みたる者は朝鮮人の外に 
 
                      欧人も見受けられたりと云う。そもそも朝鮮人の日本服を着けたるは、朝鮮人は平常日本服を怖るる故に、

                      大院君派の朝鮮人はたやすく侍衛隊を退けん為め、斯くは日本服を着けたるならんと云う。」

 
                  閔妃を実際に殺害した者が日本人か朝鮮人かは問題ではないのではないでしょうか。この事件は日本人と朝鮮人

                とが共同で起こしたものであろうと思います。韓国人の多くは日本人が起こした事件として、日本を一方的に批判して
   
                いるのではないかという気がしております。


                 最後に、閔妃殺害に関する鎮西日報の記事を2件、参考までに掲載します。

                  【明治28年10月19日付鎮西日報】

                     「●閔后弑に遭うの説 (13日京城発)

                       8日変乱の混雑中、一群の暴徒は王后陛下の寝殿に乱入し、女官と覚しき婦人3人を引き出し、無残にも
   
                      斬り殺し、その死骸は城外に搬出して焚棄したり。而してその1人は正しく王后陛下なりしよし専ら伝説す。

                      前宮内大臣も同時に惨禍に罹りしという。

                      右の下手人は何者なるやを詳らかにせざるも、洋服を着し、日本刀を帯び居たりとのことにて、闕に向ひし

                      訓練隊と共に宮中に混入したる兇徒なりしか、又訓練隊の兵士なりしか分からず、又混雑中宮闕内に入りし

                      邦人の弥次馬もありしやにて、居留邦人の迷惑甚だしと。
   

                     ●日本壮士加担の説

                        日本壮士にして今回大院君の為めに利用せられ、去8日の兇行に加わり王宮に乱入したる者数人ありとの

                      巷説稍々信ずべきが如し。

                        王宮内に在りし米国人は当時洋服を着け、仕込杖を携えたる数名の日本壮士が宮城内に於て兇行するを

                       目睹したるのみならず、親しく彼らと言語を交えたりと明言せりと伝う。

                       又日本壮士が王宮内に乱入したる事は現に外国公使中にも目撃したる者ありと伝う。(以下略) 」

    
                     私は30年ぐらい前に韓国を旅行した時、景福宮の乾清宮があった場所に、日本人による閔妃殺害状況の絵が

                    建てられているのを見たことがあります。それが現在は存在しないようです。

                     あるブログに、 「復元されて消えた閔妃殺害現場」という文章が記載されています。 これによると、乾清宮が復元

                    された時に閔妃殺害に関する絵や殺害現場の方向を示す案内板が撤去されたそうです。私はその後何度か

                    景清宮を訪れたことがありましたが、その現場には行っていませんので、撤去されたことは知りませんでした。

                    たいへん意外に感じました。そして韓国人も進歩したものだと、多少韓国人を見直した次第です。 

                    韓国人も殺害事件に関わっているはずなのに、日本人だけが殺害に関わったとして、日本人だけを責めることはでき

                    ないことだと思います。韓国人もそれに気付いたのではないかと思われます。しかし、実際はどういう理由からかは

                    はっきりとはわかりません。しかし、日韓関係にとっては、いいことではないかと思われます。

                    新型コロナが収束したら、また韓国旅行をして、景清宮を訪れて確認したいと思います。





               令和3年5月

                            池本小四郎の父 辺土清庵について
               

    
                今月も前月に続き、長森美信著 『壬辰・丁酉(文禄・慶長)乱における朝鮮被擄人の日本定住―朝鮮人キリシタンを中心

               に―』(天理大学学報第71巻第2号)を引用させていただきますとともに、新たに、内藤莞爾著『近世初期長崎の家族動態』

               からも引用させていただいて、文禄慶長の役で長崎に連れて来られてキリシタンとなり、後に棄教した朝鮮人を紹介します。


                『寛永十九年平戸町人別生所糺』に記載されている池本小四郎は池本家の当主で当時はまだ14歳でした。

               母方の祖母(75歳)と弟の清五郎(12歳)と清八(9歳)、それに下人2人、下女とその娘と乳母の合計9人で住んでいた

               そうです。父親はマカオに追放されており、母親は既に死没していたそうです。なお、寛永十九年は西暦では1642年です。

               この父親は「高麗人」で、母親は長崎生まれの日本人だそうです。上記『寛永十九年平戸町人別生所糺』には次のとおり

               父親のことを記しています。なお、天川とはマカオのことです。


               「父生国高麗之もの、幼少より長崎当町に参、即きりしたんに罷成、其年天川に参、慶長弐年ニ長崎当町ニ帰宅仕。

                爰元ニ而なんはん人之子やしない申候ニ付、寛永拾三年ノとし天川へ被遣候。」


                ※ 「爰元」は「ここもと」と読み、このところ、ここ、という意味。「なんはん人」とはポルトガル人のこと。
         

                1634年の「人別改之帳」つまり、『寛永拾壱年 平戸町・横瀬浦町人別改之帳』では、この父親の名前は辺土清庵と記載

               されている高麗人であり、妻とばば、娘2人、息子4人、下人6人、下女9人の合計24人記載されています。借家ではなく、
 
               家持でした。「辺土」という名前は、出島の阿蘭陀商館長の名にもときどき登場するヘンドリック(Hendric)をもじったもの
     
               と考えられるそうです。


                辺土清庵は幼少の頃に文禄の役で日本に連れて来られ、長崎でキリスト教の洗礼を受けましたが、まもなくマカオに

               行っています。1597年に長崎に帰宅したとのことで、長森美信氏はマカオに行ったのは、「年季奉公か」と推測しておられ

               ます。奴隷としてマカオに年季奉公させられたのでしょう。前月ご紹介した川崎屋助衛門尉の妻は1599年9歳の時に小西

               行長領の肥後八代に連れて来られ、1611年に長崎に来てすぐにマカオに行って5年後に長崎の外浦町に「帰宅」したこと

               からすると、辺土清庵もマカオに行っていた期間は5年だったかもわかりません。5年だとすると、朝鮮から連れて来られた

               年は1592年ということになります。豊後国府内藩(2万石 大分市)の藩主竹中重義が長崎奉行を勤めていた1629年~

               1632年の間に、辺土清庵は棄教したそうです。『寛永拾壱年 平戸町・横瀬浦町人別改之帳』で1世帯24人という数は

               最大の人数だったそうです。辺土清庵が営む商売は、たいそう繁盛していたと思われます。彼はポルトガル貿易に関わり、

               宿泊や貨物保管、取引斡旋などを営む船宿を経営していたと推測されています。
    
                                   
  
                辺土清庵はポルトガル人と日本人の混血児を養育していましたが、長森美信氏は「妻の連れ子か」と推測しています。

               しかし、このことが原因で1636年(寛永13年)に辺土清庵は混血児とともにマカオに追放されました。

               内藤莞爾著『近世初期長崎の家族動態』によると、この寛永13年には南蛮人の血縁者として287人がマカオへ追放

               されたそうです。相当な数ですね。ポルトガル人は1636年~1639年に出島で貿易が許されていたのですが、

               1637年~1638年に島原の乱が起こったため、幕府は1639年にカトリック教国のポルトガル人を出島から追放して

               います。
    
  
                辺土清庵の妻は息子4人と娘2人を生んでいます。『寛永十九年平戸町人別生所糺』に戸主と記載されている小四郎は、
    
               1634年(寛永11年)の『寛永拾壱年 平戸町・横瀬浦町人別改之帳』では名前が見当たらず、長男・仁左衛門と次男・
    
               三右衛門のうちのどちらかが小四郎と改名したようです。そして、1655年の人別長では小四郎は小左衛門と改名している
    
               そうです。すると、1634年に記載されていた仁左衛門が、小四郎を経て小左衛門と改名した可能性が高いと思われます。


                1634年の人別改之帳で小四郎は6歳と記載されているので1628年生まれということになります。すると、1655年

               の時は27歳になっていました。下人は1人になっていましたので、おそらく父から受け継いだ商売はずいぶんすたれてしま

               ったです。父の代には15人も下人と下女がいたわけですから。それでも借家ではなく、家持だったので、なんとか商売も

               維持していたものと思われます。父親の辺土清庵はマカオに追放された後、どんな暮らしをしたのでしょうか。商才にたけた

               人物のようですので、マカオでもなにかの事業を起こして成功したのかもしれません。



                 参考文献

                     長森美信著   『壬辰・丁酉(文禄・慶長)乱における朝鮮被擄人の日本定住―朝鮮人キリシタンを中心

                                に―』(天理大学学報第71巻第2号)  

                       ※ 長森美信氏は現在、天理大学国際学部外国語学科で韓国・朝鮮語専攻の教授。

                     内藤莞爾著  『近世初期長崎の家族動態』

                        ※ 内藤莞爾氏は2010年9月17日に94歳で逝去。社会学者。九州大学名誉教授。




             令和3年4月

                           川崎屋助右衛門尉とその家族について
               

                 先月(3月)10日付の長崎新聞には、『禁教後の住民の様子伝える』と題して、長崎歴史文化博物館が所蔵する

                「寛永十九年平戸町人別生所糺(せいしょただし)」という古文書に、平戸町で暮らした人々のことが詳しく記録されていることが

                紹介されています。
                  
                  平戸町というのは、1571年に大村の領主・大村純忠が長崎の岬に6町を建設したうちの1つで、他に島原町、大村

                町、外浦町、文知町(分知町ともいう)、横瀬浦町がありました。長崎の岬というのは、現在の馬町から旧長崎県庁が

                あった部分までを言います。上記記事中、長崎学研究所の赤瀬浩所長によると、6町に住むためにはキリシタンである

                必要があり、そのため当初は住民全員がキリシタンだったそうです。

                  寛永十九年は西暦では1642年で、「寛永十九年平戸町人別生所糺」は長崎奉行所に提出された平戸町住民世帯に

                ついて詳しく書かれた資料だそうです。人口は225人で、そのうちキリシタン歴のある人は121人、キリシタン歴の
    
                ない人は104人だったそうです。

                  この寛永十九年平戸町人別生所糺には、川崎屋助右衛門尉という人とその家族についても記載されています。

                この川崎屋助右衛門尉とその妻は朝鮮人で、文禄慶長の役の時に日本軍によって日本へ連れて来られました。

                  長森美信著 『壬辰・丁酉(文禄・慶長)乱における朝鮮被擄人の日本定住―朝鮮人キリシタンを中心に―』(天理大学

                学報第71巻第2号)という論文に、川崎屋助右衛門尉の家族に関する寛永十九年平戸町人別生所糺の記述が全文掲載さ

                れているので、以下に引用させていただきます。

 
                  一 年六拾、川崎屋助右衛門尉

                      生国高麗之もの、四拾八年以前ニ備前岡山に参、其後慶長拾九年に長崎上町に参、きりしたんニ罷成候へ共、
 
                     竹中采女様御代ニ外浦町ニ而ころひ、一向宗ニ罷成、大光寺を頼申候、 

                  一 年五拾三、右之女房

                      生国高麗之もの、慶長四年肥後八代ニ参、同拾六年ニ長崎ニ参、則天川へ被売渡、きりしたんニ罷成、元和二年

                     ニ帰宅仕、外浦町ニ参、竹中采女様御代ニ同町ニ而ころひ、一向宗ニ罷成、大光寺を頼申候、

                     右之助右衛門尉・女房共ニ、高麗之ものにて御座候故、町中吟味之上、慥成請人立させ、請状ヲ取、組中ニ召置申候、
     
                  一 年拾九、右之子たつ

                      生所長崎之もの、幼少ゟ切したんに而御座候へとも、竹中采女様御代ニ父母同前ニころひ、同宗同寺頼申候、

                  一 年拾六、右之子猪の助

                      生所長崎、同御代ニ同前ニころひ、同宗同寺頼申候、



                  長森美信氏によると、川崎屋助右衛門尉は1583年に生まれ、日本に連れて来られたのは13歳だった1595年(文禄4)

                 だそうで、宇喜多秀家領の備前岡山に連行された後、1614年(慶長19)32歳の時に長崎の外浦町にやって来てキリシタン

                 になったそうです。

                   また、川崎屋助右衛門尉の妻は1589年に生まれ、1599年(慶長4)に9歳で小西行長領の肥後八代に連れて来られ、
    
                 12年後の1611年(慶長16)21歳の時に長崎に来てすぐマカオに売り渡され、そこでキリシタンになりました。
    
                  5年後の1616年(元和2)に長崎の外浦町へ「帰宅」しましたが、長森美信氏は、「おそらく5年間の年季奉公を終えた」
 
                 と推測しておられます。 そうであれば、マカオの売春宿に5年間の期限で売られて行ったのではないかと私は思います。 
 
                  長崎に帰った後、助右衛門尉と出会って結婚し、その後棄教し、娘たつ、息子猪の助を生みました。
 
   
                  川崎屋助右衛門尉夫妻は出身が朝鮮(高麗)国であるために、平戸町中の吟味を受けるとともに、夫妻の身元引請人から

                 証文(請状)を取り、これを五人組で保管していたそうです。

                  助右衛門尉は「川崎屋」と記載されているので、どんな商売をしていたのか気になります。また、長崎地方裁判所や長崎地

                 方検察庁、長崎家庭裁判所、旧県庁舎新別館などが建ってある長崎市万才町は、1963年(昭和38)に、平戸町、大村町、

                 万才町、本博多町、外浦町の北半が合併して発足したそうです。それ以前の町割りは面積がずいぶんと狭かったことがわ

                 かります。

                  江戸時代の古地図には、平戸町は、大村町・外浦町と樺島町の中間に位置しています。細長くて狭い町でした。そこに、

                 1642年(寛永19)には、225人(長森美信氏の上記論文では223人)もの人々が住んでいたので、人口密度はとても

                 高かったと言えるのではないでしょうか。




                            
                                        長崎の岬に建てられた町の絵


            
                               
                                       江戸時代の古地図に描かれた6町




                        参考文献:令和3年3月10付長崎新聞

                          長森美信著 『壬辰・丁酉(文禄・慶長)乱における朝鮮被擄人の日本定住―朝鮮人キリシタンを中心に―』
                                                          (天理大学学報第71巻第2号)
   
                          『長崎市の地名』 ウィキペディア 






              令和3年3月

                             ヘンドリック・ハメルが取り持つ日・韓・蘭交流
                              헨드릭 하멜이 주선하는 일・한・란교류

               

                  ヘンドリック・ハメル(1630-1692)は江戸時代前期、長崎の出島で朝鮮に抑留された記録を書いたオランダ生まれの船

                 員です。1653年6月、ヘンドリック・ハメルら64名はデ・スペルウェール号に乗ってオランダ東インド会社(略称

                 VOC ) のあるバタビア(現在のインドネシアの首都ジャカルタ)を出航し、台湾を経由して日本の長崎の出島へ向か

                 う途中、8月11日から15日まで5日間激しい暴風に遭い、8月16日に済州島に漂着しました。船は座礁し、難破し

                 てしまいました。済州島に上陸して助かったのは36人だけでした。彼らは朝鮮の兵士たちにより済州島の総督のいる

                 役所に連れて行かれて、総督から訊問を受けた後、別の建物に収容され、そこで抑留生活を送りました。  
    
                  そして翌年6月下旬、都の漢城へ連れて行かれ、第17代国王の孝宗から訊問を受けた時、「私たちを日本に送り、同胞

                 に再会して故国に帰ることができるようにしてほしい」と懇願したが、王は「外国人を国土から送り出すことはこの国の習慣

                 にはないことで、外国人はここで一生を送らねばならない」と言って拒絶されました。

    
                  ハメルらは軍隊に入れられ兵士として勤務させられた。そして1656年3月ソウルから全羅道の康津の兵営に移され、そ

                 の後1663年3月に同じく全羅道の麗水に移されました。1666年7月朝鮮国を脱出するために船を購入し、脱出の準備を

                 整えていたところ、9月4日ついに日が暮れてから脱出を敢行しました。この時、済州島に漂着した36名のうち、生存者は
   
                 16名しかいませんでしたが、そのうち8名が朝鮮脱出を試みたのでした。脱出は成功し、9月8日に現在の長崎県南松浦郡

                 新上五島町の奈摩湾に到着しました。彼らは済州島に漂着して以来実に13年間も朝鮮に抑留されていたのでした。
    
                  9月13日彼らは福江藩によって長崎へ連れて行かれ、翌14日長崎に上陸し、長崎奉行所で長崎奉行から訊問された後、

                 出島のオランダ商館へ連れて行かれ、久しぶりに故国の人たちと嬉しい再会を果たしました。ハメルら8人は長崎奉行から

                 出島に1年間滞在させられた後、翌1667年10月25日、長崎を出航し、11月20日、バタビアに着きました。
 
                  ハメルは 「私たちは神に対し、恩寵によって異教徒の手から逃れ、14年もの間を悲しみと苦しみの中に過ごした後で、
   
                 今や多数の同胞の許に帰って来たことに対して心から感謝を捧げました。」 と書き記しています。ハメルを除く7人は12
    
                 月28日にバタビアを出航し、翌1668年7月20日、オランダのアムステルダムに到着し、久しぶりに故国の土を踏みま
    
                 した。

                  ハメル1人は残務処理のためバタビアにそのまま残りました。ハメルがいつオランダに帰国したかは不明ですが、ハメル

                 が1670年8月29日にオランダの東インド会社へ朝鮮滞在中の給与の支払いを要求して認められていることから、それ

                 までには帰ったことはわかっています。

 
                  長崎の出島に滞在中、バタビアの東インド会社の総督と評議員あて報告書を作成して送っています。これが本国オランダ

                 に送られて出版されるとともに、フランスやドイツ、イギリスでも翻訳・出版され、ヨーロッパ各国に伝えられました。

                 このハメルの報告書は当時ほとんど知られていなかった朝鮮の諸事情を伝えるものとして、たいへん貴重な資料でした。

                 この報告書には、朝鮮で抑留された経緯だけでなく、朝鮮国の地理や国王の権威、軍隊の様子、官吏、町村の収入、刑罰、

                 宗教、国民の家屋、結婚、家庭生活、国民性、外国貿易・国内商業、言語・文字など幅広い分野にわたって記述されており、

                 とても興味深いものです。日本では、生田滋氏が翻訳し、『朝鮮幽囚記』として1969年(昭和44年)に平凡社から出版

                 されています。

    
                  なお、ハメルが朝鮮から脱出した時、まだ朝鮮に残っていた8人について、江戸幕府が対馬藩に命じて朝鮮と日本への送

                 還を交渉させた結果、途中で病死した1人を除く7人全員が1668年6月に対馬藩に引き渡され、8月には出島のオランダ

                 商館に引き渡されました。彼らは11月30日にバタビアに到着しており、翌1669年には本国へ帰国したようです。

                  現在、韓国の全羅南道康津郡兵営面にハメル記念館が開設されています。また、康津郡庁はホームページに 『ハメル

                 記念館』 を掲載しています。
    
                  ハメルたちが抑留された全羅道兵営のあった韓国全羅南道の康津郡とハメルの出身地であるオランダのホムケム市は、

                 1997年に友好交流協定を結ぶとともに、翌1998年10月3日、様々な分野での交流協力を目的として姉妹縁組を締結し

                 ています。最近では2017年6月にホムケム市長ら11名が友好交流20周年記念行事の一環として康津郡を訪問し、
    
                   交流を行いました。

          
                   私は今年1月に韓国の友人からラインで教えてもらったのですが、韓国には、韓国ハメル記念事業会という団体があり、

                  ハメルについて周知し、研究する韓国・オランダ国際親善団体」とホームページに書かれています。団体の所在地は済州市

                  とソウル市の2ヵ所にあります。また、済州島に漂着した8月16日には毎年、漂着地追慕祭が行われているようです。

                  韓国の友人によると、近々済州島でハメル学会創立セミナーが開催されるそうで、ハメルと関わりがある長崎に住んでい

                  る私をセミナーに招待したいと考えているので、私にハメルと長崎との関わりを勉強してほしいと言われました。その友人も

                  ハメル学会の創立に参画するそうです。たいへんありがたい話ではありますが、コロナの関係で韓国への渡航はしばらく時

                  間がかかりそうですので、いつ開催されるかわかりませんが、ハメル学会創立セミナーへの出席は無理ではないかと思わ

                  れます。なによりも、ハメルについての知識が乏しいので、これからハメルについてもっと勉強したいと思っています。




                                     





              令和3年2月

                               朴泳孝の来崎



                  明治31年7月、日本に亡命していた朝鮮の政治家 朴泳孝(パク・ヨンヒョ)は、長崎の活水女学校に留学していた娘の 
    
                 朴妙玉に会いに長崎にやって来ましたが、目的はそれだけではなかったようです。 

                  明治31年7月8日付の鎮西日報は、来崎の目的は韓国より当地に密使が来て、之と面会するためという噂がある、と 
    
                 報じています。そして、6日後の7月14日付鎮西日報には、次のとおり、実際に朴泳孝が韓国から来た元内閣書記官と会っ

                 ことを伝えています。


                  【明治31年7月14日付け鎮西日報】

                   ○金有鉉と朴泳孝

                      この程來崎し外浦町福島屋投宿中なる朴泳孝氏が本国の密使に面会云々の事は本紙に記載しし所なるが、これは

                     泳孝氏がかねて会期を約しつつありし京城北村居住の金有鉉及び釜山港梁村住徐亮淳の2名は、昨日午前十時入港

                     玄海丸にて朝鮮より来着し、直ちに上陸、福島屋に朴氏を訪ひ同所に投宿せり。朴氏の言によれば、単に旧相識と

                     言ひ居る由なるも、金有鉉は朴氏が韓朝の大臣たりし時、内閣書記官の職に在りたる人なりと。



                   さらにその翌日、朴泳孝は2人と共に神奈川県大磯に向かったことが、次のとおり、明治31年7月15日付け鎮西日報に

                  記載されています。


                  【明治31年7月15日付け鎮西日報】

                   〇朴泳孝氏一行の出発

                     過日来当地滞留中なり韓客朴泳孝氏は一昨日の玄海丸にて朝鮮より来着したる内閣書記官金有鉉、□人徐炮淳両

                    氏と共に昨日午後1時発の列車にて東上、大磯へ向へり。ちなみに朴氏は時宜によりは来たる9月頃一先ず帰国する

                    積もりなる旨昨日或る来訪者に物語りたりと言う。



                   朴泳孝は、次のとおり韓国に帰国するという報道がありましたが、本当に帰国したのでしょうか。実際に帰国したのは
  
                  明治40年(1907)6月でした。それ以前に一時帰国したのかどうかわかりません。
   
   
                  【明治31年9月13日付け鎮西日報】

                   〇朴泳孝氏の帰韓

                      韓国亡命の客として去る明治28年以来本邦に流寓せし朴泳孝は明14日神戸解纜の便船にて帰国することに
    
                     決したりと。氏が今回帰国に決したる理由は最も親密なる政友にも秘し居れば、未だ詳らかならざるも、兎に角
    
                     同国近時の政治状況が氏を歓迎するものあるが如く、氏は帰国後遠からずして顕要の地に立つべしとなり。

   
 
                   朴泳孝は明治17年12月に金玉均らとクーデターを起こしましたが、3日天下で終わってしまい、仁川から船に乗って

                  日本に亡命して来ましたが、最初に日本に着いたのは長崎でした。長崎では、海産物仲買商の松浦治兵衛が西坂の自分

                  の家の奥まった離れ家に、朴泳孝と金玉均の二人をかくまったことがあったそうです。


               令和3年1月

                                朴泳孝の娘 朴妙玉の長崎留学



                  朴泳孝(パク・ヨンヒョ 1861~1939) は19世紀末から20世紀初めにかけての朝鮮の政治家です。金玉均らと開化党を

                結党し、日本に習って朝鮮の開化政策を進めましたが、守旧派の反対で挫折しました。明治17年(1884)12月にクーデター

                を図りましたが、中国軍の介入で失敗に終わり、仁川から船で長崎に逃げて来ました。その後東京へ行き、しばらくして神戸

                に居を移しました。
      
                  明治27年(1894)に帰国して内務大臣に就任しましたが、翌28年(1895)7月に朝鮮国王高宗の妻閔妃の暗殺を企てた

                という嫌疑がかけられて再び日本に亡命しました。この時、娘の朴妙玉も父親に連れられて日本にやって来ました。 
    
                その朴妙玉が明治31年(1898年)2月に長崎にやって来て、活水女学校に入学したことが、当時長崎で発行されていた

                鎮西日報に掲載されています。

    
                  朴泳孝と3番目の妻范氏との間に2男1女が生まれ、娘として生まれたのが朴妙玉です。

                宋連玉著 『朝鮮女性の視点から見た3・1独立運動』 によると、朴妙玉は1896年(明治29年)に、父親の朴泳孝の

                日本亡命に同行して長崎の活水女学校に留学し、後に神戸の親和女学校で6年間学び、1907年(明治40年)に帰国した

                そうです。しかし、朴泳孝の日本亡命は1895年ですので、1896年に同行して来たというのは誤りと思われます。また、

                朴泳孝が1907年月6月に韓国に帰国し、李完用内閣の宮内府大臣となりましたが、朴妙玉も父親の後を追って6月末に帰

                国したようです。


                 なお、青丘文庫月報165号(2001年12月1日)の巻頭エッセーで、金慶海氏は、朴妙玉は長崎で生まれ、幼少時を長崎で

               育ったものと思われると述べています。李という女性が朴泳孝の後を追って1885年の末に長崎にやって来たそうで、朴泳

               孝が長崎の彼女を訪れて、翌年、朴妙玉が長崎で生まれただろうと推測しておられます。 
 

                朴泳孝は日本にやって来て、名前を山崎永春と名乗りましたが、他に山崎知遠という名前も使っていたようです。

               朴泳孝が娘に会いに長崎にやって来たことが、鎮西日報に載っていますので、ご紹介します。


                 【明治31年7月9日付け鎮西日報】

                  ●朴泳孝氏

                     朴泳孝山崎知遠氏が来崎のことは前号に記載ししが、同氏は再昨六日来着、外浦町福島屋に宿泊せり。

                    同氏来崎の用向きは種々の風説あるも、右は本年二月来崎、活水女学校に入学せる令嬢に面会のために

                    して、凡そ二週間位は滞在する由。


                【明治31年7月10日付け鎮西日報】

                            ●らくがき


                 ○朴泳孝の山崎長春娘に逢んために来りたりと、暑中休暇の娘と上京。しめんには世の疑を避得たらん。



                ここで、山崎長春というのは朴泳孝の日本人名のようですが、朴泳孝は少なくとも3つの日本人名を使っていたことがわか

               ります。朴妙玉も、上記金慶海氏によると、山崎妙子、山崎玉子、山崎玉という日本人名を使っていたようです。


                上記明治31年7月9日付け鎮西日報によれば、朴妙玉は明治31年2月に長崎に来ており、それまでは父親と一緒に神

               戸に 住んでいたのではないでしょうか。朴泳孝は日本亡命中、朝鮮政府が送った刺客によって命を狙われており、娘の安

               全のため、神戸ではなく長崎の女学校に入学させたのかもしれません。

                韓国の『週刊朝鮮』(주간조선)2004年12月16日 1833号に記載された李貞姫(이정희)京都創成大(当時。現福知山
 
               公立大学)教授によると、朴泳孝が朝鮮で親しくしていた宣教師ラッセルが運営する長崎の女学校に娘を預けた、と述べて

               おられますが、エリザベス・ラッセル女史は果たして朝鮮に渡ったことがあったんでしょうか。 
   
                 朴妙玉は後に、仁川の富豪 ハン・ガッピョン ( 한갑현 韓甲賢?という者と結婚し、5男2女を生みました。

                 (新萬金日報 『朴泳孝と潘南朴氏』 새만금일보 박영효와 반남박씨 2016.8.4)




                           
                                大正15年(1926)4月竣工直後の撮影と推定されている活水女学校の本館校舎




                    
                                                 現在の活水女子大学